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48話 一年後の夜

last update publish date: 2026-09-13 16:30:35

 謁見が終わって、王宮を出たのは昼過ぎだった。

 アルバ殿下が廊下で待っていた。

「よくやりました、エリナ殿」

「ありがとうございます。殿下の準備がなければ、今日はなかった」

「王都のデータは、効きましたね」

 殿下が少し笑った。

「右側の列が、ざわついた」

「見えていました」

「父上は、満足そうでした。あの顔は、久しぶりに見た。一年前に、『わくわくしている』と言いましたが、今日はそれ以上でしたよ」

 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。

「殿下、商会の代表についてお願いがあります」

「ゴードンさんから聞きました。昨夜、連絡をいただいた」

「はい。正式にエリナ・アッシュフォードの名で商会を持てるよう、陛下にご確認いただけますか?」

「すでに父上に話しました。年齢の問題は、特例として認めていただける方向です。正式な書類は、来週中に届きます」

「ありがとうございます」

「アッシュフォード商会の代表が、アッシュフォードの名前になる。当然のことですから」

 王宮の外で、師匠とレインが待っていた。

 師匠がエリナに言った。

「一つだけ言っておく」

「はい」

「今日の発言で、一番良かった部分を教えてもいいか?」

「ぜひ」

「クロヴェルへの返答だ」

 師匠が静かに言った。

「感情で返さなかった。でも、感情がないふりもしなかった」

 エリナはフィオナが昨日言っていた言葉を思い出した。

「感情がないふりもしなくていい、という言葉を、昨日フィオナからもらいました」

「賢い子だ、フィオナ殿は。あの返答には、あなたがいた。数字だけではなかった」

「届きましたか?」

「届いた。俺には届いた。他の人間にも届いたと思う」

 師匠が一歩退いた。

「俺はこれで失礼する。よくやった」

「先生、ありがとうございました。一年間、本当に」

「礼はいらない。あれだけの数字を積み上げてくれれば、こちらも動きやすかった。お互い様だ」

 師匠が、ゴードンの方に少し立ち止まって、何かを言った。ゴードンが深く頭を下げた。

 それから師匠は歩いていった。

 四人になった。

 エリナ、ゴードン、フィオナ、レイン。

 フィオナが言った。

「今夜、四人で食事しましょう。私が店を選ぶ」

「いい店ですか?」

「いい店よ。今日のために、前から考えていた」

 フィオナが選んだ店は、王都の中心から少し外れた、小さな食堂だった。

 石造りの建物の中に、木のテーブルが四つ。壁に羊のタペストリーが掛かっていた。

「庶民的だな」

 レインが言った。

「豪勢すぎると、落ち着かないでしょう。今日くらいは、落ち着いて食べたい」

「同意する」

 四人でテーブルに着いた。

 暖炉が燃えていた。外の冬の冷たさが、嘘のように思えた。

 料理が来た。豆のスープ、焼いたパン、ラム肉の煮込み。

 エリナは豆のスープを一口飲んだ。

 ルシェムで作ったものとは、少し違う。でも、温かかった。

「乾杯をしましょう。何に乾杯する?」

「一年間に」

 ゴードンが静かに言った。

「届いたことに」

 エリナが言った。

「父上に」

 レインが言った。

 エリナは少しだけ止まった。

 レインが「父上に」と言った。

 エリナの父ではない。でも、レインはそう言った。

「父に」エリナが繰り返した。

 四人が、湯呑みを合わせた。

 食事をしながら、話した。

 フィオナが今日の謁見の中で一番印象に残った場面を話した。

「師匠が冒頭に同じ話から始めた時、謁見の間の空気が変わった。あれは計算外だった」

「計算していました」

「え?」

「師匠からの手紙で、同じ話を使うと聞いていた。でも、実際に始まった時の空気は、計算以上でした」

「なぜ計算以上になったと思う?」

「師匠の声が、違った。師匠は感情を込めない人だと思っていた。でも、あの話をする時だけ、少し違った。本当に届けたいと思って話していた」

「俺も感じた。師匠が、ああいう話し方をするのを、初めて見た」

「師匠を変えたのは、エリナが書いたおばあさんの話だと思う」

 フィオナが言った。

「数字の奥に人がいることを、師匠が受け取った」

「レインが教えてくれた言葉が、師匠に届いて、師匠の発言になって、謁見の間に届いた」

 エリナが静かに言った。

 「一本の線が、繋がった気がする」

 レインが少しだけ目を細めた。

「俺が言った言葉が、そこまで繋がったのか」

「繋がりました」

 ゴードンが途中で席を外した。

「少し、外の空気を吸ってきます」

 それがゴードンなりの気遣いだと、エリナは思った。

 フィオナも立ち上がった。

「私も」

「フィオナも行くんですか?」

「暖炉が少し暑い。少しだけ」

 二人が店を出た。

 テーブルに、エリナとレインが残った。

 静かだった。

 暖炉が燃えている音がした。

 外から、かすかに王都の街の音が聞こえた。

 エリナは湯呑みを持ったまま、少しだけレインを見た。

「一年後の約束が、今夜です」

「そうだ」

「数字と結果ではなく、一年間に何を考えていたかを話す、という約束」

「覚えている」

「どこから話しますか」

 レインが少し考えた。

「お前から話してほしい」

「私から?」

「ああ。俺が先に話すより、お前の話を聞いてから、俺が話した方がいい気がする」

 エリナは少しだけ考えた。

 一年間、何を考えていたか。

「最初に話したいのは、変わったことです」

「変わったこと」

「この一年で、自分が変わった。言葉にできないことが増えた。整理できないことが増えた。でも、それが悪いとは思わなくなった」

「そうか」

「一年前は、全部言語化しようとしていた。情報として処理しようとしていた。でも、今は、整理できないことを、整理できないまま持っている」

「それが、変わったことか」

「一つ目の変わったことです。二つ目は、届けたいと思うようになった」

「届けたい?」

「誰かに、知っていてほしいと思うようになった。今日笑ったこと。今日、目が少し熱くなったこと。猫を貸してもらったこと」

 レインが静かに聞いていた。

「以前は、そういう気持ちがあまりなかった。でも、あなたが言ってくれた。相手に知っていてほしいから書く、と」

「俺が言った」

「それを聞いてから、届けたいと思うようになった。あなたに」

 最後の一言が、少し早く出た気がした。

 でも、出てしまったから、取り消さなかった。

 レインが少しだけ間を置いてから、言った。

「俺が話す番だ」

「はい」

「一年間、お前のことを考えていた」

「手紙に書いてくれました」

「手紙に書いた以上のことを、今夜話す。手紙では、まだうまく言葉にできなかった部分がある」

「聞かせてください」

「俺は、孤児院で育った。家族がいなかった。学院に来てからは、師匠がいた。でも、師匠は師匠であって、家族ではない」

「知っています」

「誰かのことを、これだけ考えたことがなかった。お前の手紙が来るたびに、お前が今日何を感じているかを考えた。重い時は重いと言っていい、と言ったのは、お前に言っていてほしかったからだ」

「わかっていました」

「わかっていたか」

「手紙を読んだ時、わかりました」

「そうか」

 レインが少しだけ目を伏せた。

「俺にはまだ、うまく言葉にできないことがある。でも、一つだけ言える」

「どうぞ」

「お前のことが、大事だ」

 暖炉が燃えていた。

 エリナは、レインの言葉を受け取った。

 整理しようとしなかった。

 受け取った。

 それだけ。

「レイン」

「何だ?」

「私も、同じです」

 言葉にしようとして、うまくいかないことが多かった。

 でも、今夜は、これだけ言えた。

 私も、同じです。

 レインが少しだけ、口の端を動かした。声には出なかった。でも、笑った。

「同じか」

「同じです」

「それで、十分だ」

 しばらくして、フィオナとゴードンが戻ってきた。

 フィオナがテーブルを見て、二人の顔を見て、何も言わなかった。

 でも、席に着く前に、エリナにだけ聞こえるように小さく言った。

「いい顔してる」

 食事が終わって、外に出た。

 冬の王都の夜だった。

 石畳が、冷たかった。

 空に、星が出ていた。

 ゴードンが先に宿の方へ歩いていった。

 フィオナが少し遅れて、エリナに言った。

「今夜の話は、後で全部聞かせてもらうから」

「フィオナ」

「何?」

「ありがとう」

「どういたしまして。詳細は明日ね」

 フィオナも歩いていった。

 エリナとレインが、石畳の上に並んで立っていた。

「ルシェムに帰るのか?」

「明日、帰ります」

「俺も、学院に戻る」

「そうですね」

「でも、また来る」

 前に、同じことを言ってくれた。

 最初の時は「来るかもしれない」だった。

 二度目は「来る」になった。

 今夜は、また「来る」と言った。

「待っています」エリナが言った。

 それが、今夜言えた一番大事な言葉だった気がした。

 宿に戻って、部屋に入った。

 エリナは机に向かって、荷物の中からセレーナへの手紙を取り出した。

 昨夜書いた手紙。帰ってから渡すつもりだった手紙。

 もう一行、付け加えた。

『届きました。帰ります。』

 それだけ追加して、また封をした。

 ランプを吹き消した。

 暗い部屋で、少しだけ目を開けていた。

 今夜、一年後の約束が果たされた。

 レインが言った。お前のことが、大事だ。

 自分が言った。私も、同じです。

 整理しなかった。

 でも、あることは確かだ。

 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 今夜、届いた。

 それが今夜、一番大事なことだった。

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